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中井雅佳君

「親には言えない留学秘話」

中井 雅佳

1 はじめに
 留学生活・・その言葉から一体いかなることが想像されるだろうか?ある人はブロンドヘアーの綺麗なお姉さんを想像するかもしれないし、はたまた自分の顔より大きいハンバーグやアイスクリームを想像するかもしれない。もちろん、現地の生活に溶け込み流暢に英語を話す自分に思いを馳せ・・・と妄想とは果てしなく尽きないものである。
 昨年末に帰国し、私の心の聖地、須原英数教室を訪れた際先生に「中井君今度は留学のことを書いてくれたら・・」と嬉しい機会を頂き、喜んで筆をとることにしました。しかも今回は一歩踏み込んだ内容でとのことなので色々率直に書いていこうと思います。前作は生徒の皆さんが楽しめる内容でしたが、今回は子供を将来留学させようか迷っている両親へ語学留学の真実を知って頂くことを主眼において色々書いております。
 約2年半アメリカマサチューセッツ州のボストンに留学してきた結果を今ここに赤裸々にさらそうと思います。留学斡旋会社から訴えられて発禁処分になる前に是非一読くだされば幸いです。
 2 留学の種類と動機
留学にも色々とタイプがあると思いますが大まかに以下に大別されると思います。
 A)民間の語学学校への留学
 B)大学付属の語学学校への留学
 C)大学、もしくは大学院への留学
 私は都合、この全てを経験したのですが、紙面の都合上今回はA)の民間の語学学校での生活を中心に説明したいと思います。
 まず、私が留学を決意したのは会計士の二次試験に合格した頃でした。2007年の11月、景気はまだまだ良く私の友人はみな大手の監査法人にすんなり就職していきました。私は親の強い勧めがありあまり乗り気ではなかったのですが、確かに就職するとまとまって留学する機会もないし、せっかくだから留学してみようと思いました。そのとき父に「相続税とはもっとも無駄な税である。相続税で国に金を取られるぐらいなら、今、お前の留学に投資する」と言われました。確かに教育とはもっとも効率的な投資だと思います。がしかし、子孫のために美田を残して欲しかった私としてはちょっぴりがっかりでした。さしあたり語学留学してその後大学院で経営学修士号をとって帰国するという目的を立てました。そのため大学院進学コースがある某有名語学学校を選択し、様々な手続きを経て翌々月の1月初旬にはボストンへの途にありました。
3 留学の罠(1)「病む」ということ
 私のことを知っている人はきっと私を、良く食い、よく喋り、よく寝る、明るい人と評してくれるかと思います。自分でもどんなことにもそれほど落ち込まない自信がありました。大学入試の前期試験を落ちた私は、翌日の後期試験の勉強を放棄して先生の家でお茶とクッキーをご馳走になったのを覚えています。先生達と和め、心が落ち着いたせいか翌日の試験では良い結果が得られました。初年度の会計士論文式試験に落ちたときも不思議と落ち込みませんでした。そんな私はもちろんホームシックにもなるわけも無いだろうし、留学に行ったからといって落ち込むことは万に一つもないと確信していました。それにおいしいものを食べれば嫌なことが吹っ飛ぶ単純な性格だったので、この手の心の病にはかなり楽観していました。しかし実際は全く逆でした。日本式の教育になれた私のリスニング力とスピーキング力は、大体、ネイティブのレベルで言うと2歳ぐらいだったかと思います。22歳の頭脳でも、話せるのは2歳ぐらいの子供の内容・・「体は大人、頭脳は子供」と逆コナン状態に陥ってしまいました。言いたいことが言えないもどかしさは本当に苦しかったです。(今でも時々ありますが・・)
 何しろ初めてのホームステイですし、一人暮らしすらしたこと無いのに、慣れない異国の地での生活、さらには勉強とまさにあの頃は先の見えない地獄でした。将来に対する漠然とした不安も私の心の病みに追い討ちをかけました。
 大体一ヶ月を過ぎたあたりから英語もなんとか話せるようになり友達も増えとても楽しい毎日を過ごしていました。逆にこの頃は人生で始めて、学校のない休日がつまらなく早く学校に行きたいと感じる毎日でした。それは自分が会話のための英語を吸収し、成長を実感できたからかも知れません。はたまた、ちかくにあるハンバーガー屋で巨大なハンバーガーを発見してそれを注文できるようになったからかもしれません。
 つまり、どれだけ落ち込まないと思っていても、かなりの確率で病んでしまうものです。ましてや海外留学がはじめてなら尚更でしょう。そういう意味では、先生が考えられている通り、高校時代の夏休み等の長期休暇を利用して一度留学しておくのが良いかもしれません。短期の留学では勉強そっちのけで思いっきり楽しむ・・そんなつもりで気楽に英語に親しむのが後々の留学の布石になるのではないかと思います。
 「病む」と書きましたが、病気のような深刻なものではなく不安や焦り、孤独感、自分の無力さに対するやるせなさが混じった程度のものだと理解して頂ければ幸いです。
 4 留学の罠(2)斡旋会社のプロパガンダ
 さて実際に勉強を開始した語学学校とはどのようなところでしょうか?毎日、試験の準備に忙しいのを尻目に周りのやつらはドンちゃん騒ぎです。そう、語学学校で真面目に勉強している人なんてほとんどいません。そもそも私が見落としていた点は語学学校には、先生以外に英語を母国語とする人(アメリカ人、イギリス人等)が全くいないことです。クラスメートはたいてい韓国人、台湾人、フランス人、南米人でしょう。よく言えばインターナショナルですが、英語を勉強するベストの環境とは言えません。そもそもボストンに留学した理由は、この語学学校の大阪事務所の方が「ボストンは京都のような学生街で、比較的年齢の高いかたが留学され落ち着いた環境で勉強に取り組めますよ」と言われたからです。はっきり言って超弩級の嘘でした。確かに西海岸に比べたら静かかも知れないが、寮では連日パーティが繰り広げられ、睡眠障害にかかるのは時間の問題でした。
 それではホストファミリーならどうでしょうか? ホストファミリーのメリットは言わずもがな、現地の方と一緒に生活する中で言葉や文化についての理解を深めうる点でしょう。それがもし、あなたのホストファミリーが中国人で食事は毎回チャイニーズフード、家での会話は全て中国語だとしたら如何だろうか?これならどこに留学したのかわけが分からなくなるでしょう。この話は私の友達の笑えない経験を、笑える文書に変換させて頂いたものです。私は幸運にもアメリカ人の家庭でしたが、何も言わないとこういう家に飛ばされる可能性は大いにあります。先ほど日本人は留学ビジネスのカモと書きましたが、何も言わない日本人だからカモなのです。アメリカは自己主張の国です。主張しないとどんどん損をしていきます。
 先生の質はどうでしょうか?学校の金に手を出して首になる同性愛者の先生、生徒と異性不純交遊する先生、未成年を自宅に招いてアルコールを飲ませる先生等々様々な人がいます。もちろん中にはすばらしい先生もいます。幸い私の先生は志のある方で後々までお世話になりました。ここまで書いて自分で気づきましたが私は相当ラッキーだったのかも知れません・・
 次に絶対に気をつけなくてはいけないのはマリファナへの誘惑です。先述したように語学学校には多くの南米人がいます。アメリカ人を含め外人の薬に対する罪に意識は日本人のそれと全くかけ離れています。彼らにとってはマリファナなんて軽いいたずら程度のようにしか考えていません。現にオランダでは合法です。だからといって日本人が吸っていいものではありません。須原英数教室にいる人なら今までそのような環境におかれたことがないので考えたこともないかと思いますが、いざその手の誘惑が来た際には毅然とした態度で断れるような態度が必要です。このようなことを書くこと自体情けない気がしますが、日本の大学も相当蝕まれていると聞きましたので敢えて書きました。
 5 留学の罠(3)言い訳だけがうまくなる留学と経験という名のオブラート
 私は、留学中に初期の目的を失ってその目的を達成できないまま帰国していく人を多く見てきました。こういった人たちの多くが口にすることは「留学はすごくいい経験だった」という言葉です。韓国人やコロンビア人とお酒を飲むことは確かに経験かも知れませんが、彼らはこの「経験」という言葉を自分の失敗を綺麗に包み隠して美化するためのオブラートとして使っているだけなのです。そして、なぜ英語が上達しなかったのかを弁明するための言い訳だけがうまくなるのです。「ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語はラテン語を基礎とする親戚みたいな言語である。他方、日本語はラテン語をベースにしていないから、英語となんら共通項がない。つまり、日本人にとってはヨーロッパ人に比べ英語学習は難しいものであり、留学で成果が上がらないのも致し方ない・・」この様な、もっともらしい言い訳が、19歳の大学生の口から滑らかにこぼれ落ちるのです。君はいつから言語学者になったのかと疑いたくなりますが、英語よりも言い訳がうまくなるのが語学留学なのです。日本人が英語学習に不向きなのは地政学的、歴史的、言語学的にも正しいかとは思いますが、いまさらどうすることもできない与件を嘆くよりも、いかにそれを打ち破る努力をするかという建設的な考えはそこには微塵もないのです。私が語学学校時代、そして今も噛み締めている言葉は「怠るものは不平不満をいい、努力するものは希望を語る」です。いつの頃からか須原英数教室に掲げられていたあの言葉には何度も助けられました。
 また、日本人(特に女性)は何かと群れや徒党を組んで集団の中に自分の居場所と心地よさを求める傾向があると思います。日本ではそれでよいかもしれませんが、海外に行って語学を勉強する際、日本人ばかりでつるむのは如何なものかと思われます。結局海外にまで来て日本人とばかりとつるんでいる人はかなりの数です。だからといって日本人にまで英語で会話することには大反対ですが、適度な距離が必要だと思います。
 留学というものが身近になっている昨今、単に語学学校に留学しただけでは何の付加価値も生まないのが現状だそうです。就職活動をしている友人の話では、今までに何を頑張ってきたか?と採用担当に聞かれて留学と答えると「またか!留学頑張ったって言う子とクラブ・サークル頑張りましたって子ばっかりやな、もう聞き飽きた」と言われたそうです。ですので、留学するに越したことはないですが、何か形になるようなものを残す必要があるのではないのでしょうか?例えば飛びぬけて素晴らしい英語の試験のスコアだとか、大学、大学院を卒業したとか等々・・・何か他の人と違うことをしないと留学を成功させることは難しいと思います。
 6 日本の英語教育に対する私見
 この教室便りは様々な学校の先生も読まれているとのことですので、私が英語の勉強法について私見を述べても恥ずかしいだけですが、私の高校時代の失敗が教室の後輩の何かの役に立てばと思いこの章を書くことにしました。
 中学、高校での英語の勉強は、高校や大学への入学試験を合格するために行われているといっても反論される方はそう多くはないかと思います。つまり、第一にリーディング、第二にライティング、第三にリスニングという優先順位です。少なくても私の中高一貫の英語教育の中で外国人とコミュニケーションをとるという英語本来の役割のために英語を勉強していると感じた機会は皆無でした。高校の評判、評価も大学合格者の実績で評価されるので、日々の授業が試験のためのものになってしまうのは仕方ないことです。ですが、どうせなら試験だけでなく自分の英語のためにも役立つ勉強を行うのが賢明だと思います。須原先生が常々学校の授業と自分の勉強を大事にしろとおっしゃっている通りのことですが・・。
 ではそのような一挙両得的な英語の学習法とは何か・・・既にお気づきでしょうが速読英単語の暗記だと思われます。僕は留学時代、遂に速単の有用性に気づき、実家から母親に急遽昔に使っていた速読英単語を送ってもらったほどです。やはり、英語の会話を上達させようと思えば、ある程度の文章をまとまって覚える必要があります。そもそも外国語なのですからある程度まとまった表現を覚えこむ必要があるのではないでしょうか?会話の流れの中で自然とこの動詞はこの前置詞と結びつくんだとか、不定詞が必要なんだといったことが自然に身につくのです。単語と単語の意味しか書いてない単語帳からはこのような英語同士の相性が学べるといったことはまずありません。
 僕が勘違いしていたのは、高校時代あの長い文章さえ覚えれば成績が上がるのだろうと誤解していたことです。文法を全く理解せずに、ただお経のようにあの文章を覚えるのはただの苦痛でした。もう一度やり直せるなら英文法を復習して、しかる後に速単の各文章にそれらの文法がいかに使われているかを詳細に理解してから暗記に取り掛かりたいと思います。分析しながらだと覚えるのに時間がかかりますが、忘れるまでの時間が長くなりもします。速読英単語は、読む、書く、聞く、話すという全ての要素を向上させうる素晴らしい教材だと思います。(僕はZ会の回し者ではありません、一応・・)
7 最後に 赤点からの留学
 今から8年以上も前のことです。高校二年の英語の試験で21点をとりました。もちろん赤点(欠点)でした。忘れもしない仮定法の範囲でした。その後の須原先生との懇談ではこの21点の実物の答案用紙を前にお叱りを受けました。しかもその場でもう一度問題を解かされたのですが、私は当然やり直しもしていませんでした。先生の完全なる奇襲でした。臭いものには蓋ではありませんが、自分の中で21点は無かったことにしようと決めていたのでしょう。そんな中で、一問一問先生に詰問された私の心境はまさにパールハーバーを攻撃された米軍以上の動揺であったと記憶してます。
 21点に恥じることなく堂々とやり直しをしていない私に対し、先生の怒りは火に油を注ぐどころの騒ぎではなく、原子力発電所をひっくり返したような状態でした。その時の懇談は父が参加しており、父は私の成績のことには細かく首を突っ込んでいませんでしたから我が息子の英語のできなさにはさぞ驚いたことと思います。それもあってか懇談が終わって帰る道中で「情けない」といわれたのを覚えています。私自信も情けないと思いましたが、今となって思うのは恥をかかして父に申し訳ないことをしたなぁということです。そんな父も、ましてや僕も、アメリカの大学院を卒業できるとは思いませんでした。私が大学院を卒業できたのは、応援(資金的にも)してくれた父、母のおかげです。下の写真は肥大化したハリーポッターのコスプレではなく、卒業式での私と父です。21点からここまで成長したのかと思うと少しはあの日の不名誉を挽回できたのかなぁとも思います。21点をとって叱られたからこそ、卒業にむけて努力できたのだと思います。
 勉強の父である須原先生にもいまだに感謝しております。私は幸いにも二人の父を持つことができ本当に恵まれていると感じる毎日です。本当は大学院でのできごとや、英語力が伸びた時期、アメリカ人の性格、現地で楽しかったこと、どうすれば語学留学を成功させることができるか?を書こうと思っていたのですが、今回は安易な語学留学
に対する警鐘だけとなってしまいました。このような貴重な機会を頂いた先生に改めて感謝しつつ、筆をおきます。 
   
誤字、脱字、クレーム、質問その他は以下まで。
nakaimasayoshi@gmail.com

塾長からのコメント

 中井君は私のことを『勉強の父』『二人の父』と書いてくれています。嬉しくてたまりません。感動です。私にも同じ経験があるからです。今回の『教室だより』はすでに60ページを超えようとしていますが、これを機会に、私自身のそのことについて書かせて頂きたいと思います。
 
 実は私にも心の中で父と思い母と慕う方がいます。私の生き方を見えない糸で導いていただけているように感じます。父と思っている方は、岡山大学の恩師、阿部浩二先生です。大学に入って最初の4年間は、仕送り・特別奨学金・近くに住んでいた叔母からのお小遣いなどで、経済的には恵まれて豊かな大学生活でした。しかし、勉強に対してはいい加減で、奨学金を止められないように適当に勉強をする、賞金稼ぎのような有様でした。私にとっての奨学金は『奨遊金』で、当時は3年生から専門課程が始まりますが、半年たった時にも専門書である教科書すらほとんど本箱にはない状態でした。それでも後期から始まるゼミには、司法試験希望者が一番多く集まる『阿部ゼミ』に、何とか加えていただけました。それが阿部先生との出会いです。
 
 4年生になって就職活動も始まり、先生から『須原君は就職をどうするの?』と尋ねられ、後先のことを考えずに、かっこ良く『僕は就職をしません』と答えていました。半年ほど経って、日本銀行の重役らしいお二人が先生の研究室を訪ねられ、私のことが話題にのぼって『是非欲しい』と言って下さったそうですが、先生は『君は就職する気がないからお断りしておきました』とあっさりと言われたことは、今でもよく覚えています。勉強しなかった割には、専門科目23単位の内20単位ほどは、『優』でそろっていたからだと思います。
 
 後半の4年間は、奨学金が無くなり、親からの仕送りを断り、家庭教師で食い繋ぎながらの『苦学生』になり、生活は一変しました。先生のお勧めで大学に在籍することにいたしましたが、明治生まれの父からは『落第』という思いしかなく、しばらくは口をきいてもらえない時期もありました。『須原君、君は大学院の授業料は払えないだろう?』『はい、払えません。』『じゃ私に任せておきなさい。修士論文は書かなくてもいいね。』と先生は言われて、それから大学院の演習のいくつかに、無料の聴講生として参加させていただくことになりました。先輩や仲間の話によると、阿部先生が他の先生方に、私のことをお願いして下さっていたそうです。法律的なもの考え方や学問のご指導ももちろんですが、陰になり日向になり先生には口で言い表せないほどお世話になりました。
 
 著作権では日本の第一人者の先生です。法律の世界ではご恩返しが出来ませんでしたが、教育に携わる者の一人として、阿部先生の学者として教育者としての人となりを、少しでも手本にさせていただこうと微力を尽くしています。80歳を超えられた今でもお元気で、毎週のように東京や外国に出張されているご様子です。一年に一度くらいですが、毎年先生のお宅にご挨拶にお伺いして、『元気のおすそわけ』をいただいております。
 
 母に当たる方は、信貴山口のところで60年以上開業医をなさっておられる岡本シモ先生です。25年余り私の家族の面倒を診ていただいています。長男正光が生まれた頃、山本駅前で腕が良いと結構評判の小児科がありました。正光も何度かお世話になったのですが、どうも私の考えとはずれがあって、とうとうその先生と軽い喧嘩になりました。ある保護者のお勧めで、訪ねたのが岡本医院でした。正光が1歳半ほどで、それが岡本先生との出会いでした。診察室の扉の向こうで、妻のきよみが大きな声で叱られています。『怖い先生だなぁ』と思って、私は話に耳を傾けていました。先生のお話は確かにもっともな話なのです。『新米の親』である私と妻が気付かなかったことを教えていただけているのです。帰りの車の中で岡本先生が女医さんだと妻から教えられ、もう一度驚いたことをよく覚えています。
 
 それから半年か1年たった頃、正光が夜中の1時過ぎに突然起きて、『耳が痛い!』と言って転げまわりました。当時60歳を超えておられた先生を、真夜中に起こすのは許されないと思い、電話で救急病院をいろいろ当たりました。八尾市には耳鼻科どころか小児科もなく、大阪中央救急病院に小児科がありましたので、後部座席に正光を乗せ、車をぶっ飛ばしました。昼間1時間はかかるところ、真夜中の高速道路ゆえ、20分ほどで着きました。翌朝岡本先生のところに診察に行き、事情を説明しますと先生は、『なんで電話してこなかった!私は毎晩2時ごろまでは起きています。この子は私の患者やないか!』と一喝されました。叱られているはずなのに、私は嬉しくて目の奥が熱くなったのを今でも忘れられません。診療所と自宅の電話番号を変えていたり、診療が終われば自宅とは別のマンションに居場所を変えたりして、必要な時に役に立たない医者が多い中で、『何と医者としての使命感に燃えられた方なんだろう』と思いました。『この先生に私と私の家族の命を託そう』その時、私はそう決心をしました。
 
 私は医者ではありませんが、教育者としての『使命感』を忘れないようにしようと、岡本先生を手本にさせていただいています。正光は医師になって4年目、血管外科医としての道を歩んでいます。睡眠時間も十分とれないまま手術の執刀に追われている様子です。正光が医学の道を志すのに、私の無二の親友で無医村の医師として活躍していました大重宗比古君(過労が原因で47歳の若さで急死しました)や、幼い時からお世話になっていました岡本先生の影響が大きかったと思います。岡本先生も80歳半ばのご高齢ですが、97歳になります認知症の進んだ母の往診に、毎月お越しいただけるのが私としては楽しいひとときでもあります。
 
 教え子が大人になってからも『先生』と思ってくれる先生が良い先生なんです、と京大の西村和雄先生が話しておられたことがありました。そういう先生を目指して精進したいと思います。
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