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谷口敦基君

10年間須原英数教室で学んで

東大寺学園高校卒 京都府立医科大学1年 谷口敦基君

 僕は、小4~1浪までの十年間もの長い間須原英数教室にお世話になりました。(多分、同じ東大寺学園から東大文Ⅰに進まれた原光平先輩に並び塾生最長記録だと思います。)そんな僕の過去の受験体験やアドバイス、塾での思い出等を今回この場で書ければと思います。
 僕は須原英数教室に通わせていただく前には、大手進学塾のN学園に通っていました。(通っていたと言っても2ヶ月ほどでしたが)正直、学校が終わってすぐ塾のような生活で、なかなか友達と遊ぶ暇もなかったのが嫌でやめ、母の勧めからこの須原英数教室に通わせていただきました。大手塾の雰囲気しか知らなかった僕にとって個人塾の雰囲気は目新しく、何より授業の途中でお菓子を出してもらえることに喜び、毎週の授業が楽しみで仕方なかったです。それ以前は、塾と聞くと嫌だったのですが先生の面白い授業のおかげで、須原英数教室に通いだしてから今まで、毎週塾に行くことに全く苦痛を覚えませんでした。とび級B受験勉強を始めてからは、須原先生のおっしゃるように勉強をしていました、というよりおっしゃられたことしかやっていません。正直、6年生の頃もがあり友達と遊んだりもしていました。勉強は先生に言われたことだけを集中してやったからこそ、質の高い勉強だったので、実力がしっかりついたと思います。だから入試本番では得意の算数が簡単だったために他に差をつけることが難しく、両親や須原先生には多大な心配をおかけしながらも東大寺学園にも合格できたのだと思います。中学受験を今後むかえる後輩たちは、先生の言葉を信じて言われた通りにやっていれば自ずと結果はついてくると思います。頑張ってください。(正直、中学受験は7年も前なのであまりアドバイスできていません。すいません。)
 中学に入ってからはクラブに精を出し、毎回テストで同じような成績ばかりで勉強はそれほど(ほとんどかもしれません笑)やっていませんでした。毎回成績を見せる度に『勉強不足でした』と言い訳ばかりで、先生には『またか』と呆れられていたと思います。高校に入ってからも、クラブに文化祭にと大忙しでこれまた勉強していませんでした。そのままの流れで高校3年生を迎えました。高校3年になっても勉強しない癖は抜けずそのままズルズルと受験を迎えてしまいました。あの頃の自分は非常に考え方が甘く、まぁ勉強してなくても受かるだろうと考えていました。そのままセンター試験となり、センターの出来8割2分で医学部受験を行うには到底足りないような点でした。センターのビハインドを埋めるべく、D判定だった二次試験の非常に難しい京都府立医科大学にのぞみ、案の定不合格で、浪人が決まりました。(センターもろくに取れないのに二次で逆転しようと考えている時点で考え方が甘いですよね。)センター明けに先生に、『君は落ちて浪人すべきだ』と言われました。その頃の僕は非常に腹が立ったのですが、浪人してから思うにあの言葉は正しく、浪人することで自分の甘さや考え方、勉強に対する姿勢が変わったように思います。3月受験が終わっていきなり先生に『浪人生は4・5・6月の三ヶ月をいかに過ごすかが大事だ!』と喝を入れられ、基礎のできていなかったことを自分自身でも不合格から認めていたので、先生のいうことをちゃんと聞き、高校三年の時にやってなかった速読英単語をふたたびやり直し始めました。
 4月に入ってから予備校(S台大阪校)が始まりました。その予備校では理系の一番上のクラスで同じ高校の友人が多くいたことから、ある意味高校の頃と変化がないような感じでした。予備校の授業は一番上のレベルのクラスならば、もっと実践的なことから始まると思っていたら、本当に基礎の部分から始まりびっくりしたと同時にやっぱり須原先生のおっしゃるとおり『基礎が大事だ』ということを再認識させられました。それからは、(高校時代はできていなかったのですが)授業の予習・復習を行い、塾では速読英単語をひたすらやり、基礎の勉強を固めていきました。この頃の模試では、高校時代と同じように、阪大がD判定で、なかなかすぐには伸びませんでした。夏休みまでは上述のような生活を毎日送っていたのですが、5月にはいると予備校生活にも慣れ、少し勉強がおろそかになったりもしましたが、教室に行くことで須原先生に『檄』を飛ばしていただき、それほど中だるむことはなかったと思います。
 夏休みにはいると予備校は講習という形で日々の授業がなくなり、自分の勉強を始めました。とはいえ、自分の勉強といっても本当に、前期の予備校のテキストを復習したり、速読英単語をやったり、講習の予習・復習をしたりと苦手な科目を重点的に繰り返しただけでほかのことは何もしていないのですけど…。夏休みをどう乗り切るかが合格を左右すると須原先生には度々言われていましたので、自分を信じてただただ『基礎の繰り返し勉強』を行ないました。(しかしさすが理系の一番上のクラス、浪人生は実に優秀な生徒が多く、彼らが新しい勉強を始めたり実践的な勉強をし出したので、正直なところ内心僕は焦ったこともありました。)ここでかなり個人的な話になりますが、予備校で僕の英語の恩師ともいえる先生に巡り合うことができました。僕は昔から英語が苦手でなかなか伸びないことに悩んでいました。その先生の訳し方は独特で、僕には非常にフィットし、今までの疑問が溶けたようでした。その先生にお会いしてからは、先生の訳し方を真似、毎回授業前に訳の添削を行なってもらいました。それ以降は本当に英語を読むのが楽しくなりました。ここでその訳し方の一部をかい摘んで紹介したいと思います。もし、自分に合うなあと思ったら試してみてはどうでしょうか。その先生の訳し方は前から前から訳すのです。翻訳家は英語を話す人の英語を聞いて、すぐに訳を作りますよね?ではその翻訳家は関係詞を訳すときに後ろから戻って訳していると思いますか?いいえ、そういう人は、常に前から前から訳しているのです。『前から訳す』簡単なようですがなかなかうまくできるわけではありません。うまく訳すには前置詞、関係詞等の性質をよく理解することが大事です。あまりうまく説明できませんでしたが、これを読んで何か感じてもらえれば幸いです。特に僕が思うに、中学3年生の頃に須原先生に『語順訳』を習っていたからこそ、僕はその先生のやり方を素直に受け入れることができたのだと思います。
 夏休み以降でも、駿台の授業は同じように基礎中心でした。この頃の模試から、苦手の英語が伸びてき、また得意の数学や理科も安定して点が取れるようになり、京都府立医科大学でA判定を取るようになりました。この頃から、僕のクラスの友人でも駿台の授業をサボったりする者も多くなり、なかには油断しているような友人もみかけられました。しかし僕は、模試の結果ひとつ取ってみてもまだレベルの高いクラスの中では真ん中程度だったので油断する暇もなく、更に須原英数教室に通っていることで須原先生の目には見えない・耳には聞こえないものが僕を包んでいましたので(先生は『天使のささやきだ』と言われますが僕は……)、勉強に専念し続けられたと思います。冬休み前になって、秋の模試が返ってきて、初めて阪大医学部でB判定を取ることができました。須原先生には、高校時代から何度も『君は本気を出して勉強すれば阪大でもどこでも行ける』と言われていました。ですが正直、それまでは、全く信じておらず『阪大とかは難しすぎて自分には…』と思っていました。しかし、模試の結果B判定を見ると、阪大が手の届きそうなところに来たような気がしてすごく嬉しかったことと、もう少し現役時代に本気で勉強に打ち込んでいればなぁという思いもありました。そして同時に、生徒の能力をよく把握しておられる須原先生はやっぱりすごいなあと思いました。みなさん、先生が行けるといったところには努力すれば必ず合格します。それを信じて頑張ってください。
 冬休みになってからは、予備校の講習でのみ二次対策を行い、あとの時間はほぼセンター対策を行ないました(対策といっても過去問と知識の復習だけですが)。この頃のセンター過去問演習では、だいたい自分の目標としている点は維持できるようになりました。昨年の高3の時の得点仮定と比較すると、自分の実力をしっかり評価できていなかったことがよくわかり、去年の自分の甘さを痛感しました。今、僕は個別指導のバイトで高3の男の子の物理・化学を指導していますが、やっぱり高3の頃の自分と同じように、その子もかなり高い得点仮定をしており少し実現性に欠けているように思います。受験生のみなさんは一度、センター試験でこれくらいは取れるだろうと思う『得点の仮定』をしっかり見直して、本当に実現可能かどうかを確認してみることをおすすめします。
 センター試験当日は、同じ会場に友人がいたこともあり緊張することもなく試験を迎えました。僕の受けた地理は難しかったのですが、次の英語に足を引っ張ることもなく、一日目を終え、二日目は得意の理科・数学だったので気楽に受けることができました。
 センター試験翌日の自己採点はテストよりも緊張しましたが、苦手の国語が8割をこえていたので安心し、すんなりと自己採点を終えました。結果としては、9割1分で自分の中での最高記録でした。(ちなみにリスニング抜きでは9割3分でした、リスニングは…)しかし、点数が確保できた喜びよりもむしろ、簡単やった気がするから周りはもっと良い成績を取っているのではないか、9割1分の成績で例年通り広島大学医学部の後期に出せるだろうか、とそればかりが気がかりでリサーチが戻って来るまで非常に怖かったです。リサーチが返ってくると自分の予想通りセンターの平均点は非常に高く、後期の広島大学は安全とはいえず、二浪は嫌だったので、鳥取大学に落とさざるを得ませんでした。前期に関しては、阪大、名大でB判定、京府医がA判定で、非常に迷ったのですが一番安全かつ雰囲気が一番自分に合っているように感じていたので京都府立医科大学に決めました。
 センターから二次までの一ヶ月はひたすら過去問をやったぐらいしか覚えていません。二次試験の当日は緊張しましたが、センターで多少余裕もあり、去年も京府医を受けていたこともあって落ち着いて試験を受けることができました。物理・化学では物理が例年以上に難しかったのですが、化学でその分を埋め、また数学も2完でき、安心して英語に望むことができました。去年はセンターの分を取り返さないと!と思っていたので焦りがあったと思い思います。センター試験の重要性を痛感し、内心ホットしながら受験できました。合格発表までは落ち着かない毎日に非常に疲れました。合格発表をみたときは本当に嬉しく、開放感でいっぱいでした。自分としては一年間のリベンジに成功し、一年のいい結果だと思います。
 これにて僕の浪人体験記は終わりです。現役生のみなさんからすると浪人は一年間無駄にしたと思うかもしれません。しかし、僕は浪人の一年から得るものこそ大きかったと思います。(一応言っておきますが、浪人しろとまでは言っていません。もちろん現役合格を目指してください。)僕個人としては考え方が大人になったように思います。
最後に浪人した時の一年間の心構えを述べて終わりたいと思います。
 《心構え》
  • 基本を大切にすること。基礎がないと応用力もつかない。常に基礎の反復を。
  • 授業を大切に、授業に出るからにはしっかり集中して聞く。
  • 先生には積極的に指導を仰ぐ。
  • 周りは周り、自分は自分、自分のやったことを信じて。
  • いろんなことに手を出さなくても同じことの繰り返しで十分に力はつく。
  • 勉強でもなんでも楽しんで、メリハリつけて。

塾長からのコメント

この学年の『とび級B』(私国立中学受験教室)には5人の男子生徒がいました。3人が東大寺学園に 2人が清風理Ⅲに進学しました。生徒も保護者も勉強熱心で、深い信頼関係で結ばれており、三位一体となって中学受験に臨めた時代でした。特に谷口敦基君は人懐っこい素直な子でした。東大寺学園の6年間、もう少し本気で勉強に打ち込んでおればまた異なった結果が出ていたかも知れませんが、浪人中の1年間は良く頑張ったと思います。ご両親が挨拶に来られ、『私の家族や身内から将来医者が出るなんて信じられません』と話されました。その折、敦基君とお母さんに原稿の依頼をして、この10年間を振り返ってもらいました。
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